第1回、第2回のさが維新まつりでは、佐賀の偉人に扮した方々が街を練り歩く「さが維新行列」を行いました。
今年は新型コロナウイルス感染症拡大防止のため規模を縮小し、佐賀から日本の医療に新たな風を吹き込んだ偉人たちをメインとした行列が、佐賀城鯱の門前から佐賀県立博物館・美術館前の会場を練り歩きます。
(※今年は一般公募による行列参加者募集は行っておりません。)
きょうは、佐賀の偉人たちについて紹介します。
偉人たちがどんな偉業を成し遂げたのか、ちょっとした知識があると、より行列を楽しめますよ。
第3回さが維新まつりに登場する偉人
佐賀から日本の医療に新たな風を吹き込んだ偉人たち
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鍋島直正 【1814(文化11)年~1871(明治4)年】
佐賀藩近代化のリーダー
10代佐賀藩主。西洋医学の先進性を重要視した直正は、1834年(天保5年)に医学寮を設置。1851年(嘉永4年)には蘭学寮を設立し、佐賀藩での本格的な蘭学教育を始めた。また、同年、現在の医師免許制度のさきがけとなる「医業免札制度」を開始した。
天然痘が大流行した際には、伊東玄朴らの勧めで、牛痘苗(ワクチン)をオランダを通して取り寄せさせ、佐賀城で世継ぎの淳一郎(直大)に接種させた。その成功により、種痘は領内に広まり、やがて全国に普及する契機となった。
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伊東玄朴 【1800(寛政12)年~1871(明治4)年】
近代医学の祖
16歳で漢方医学を学び、23歳で佐賀の蘭方医島本良順に、翌年から長崎でシーボルトに学ぶ。
1826年(文政9年)、江戸に出て、1833年(天保4年)に蘭学塾象先堂を開き、門人を育成した。1843年(天保14年)、10代佐賀藩主鍋島直正の侍医となり、天然痘予防の種痘の必要性を直正に進言。1849年(嘉永2年)、直正は我が子に接種させ、江戸では玄朴が種痘を広めた。
1858年(安政5年)、玄朴らが神田に設立した「お玉ヶ池種痘所」は、のちに東京大学医学部に発展し、近代医学の礎となった。
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相良知安 【1836(天保7)年~1906(明治39)年】
日本にドイツ医学を導入
蘭方医。日本にドイツ医学を導入した功績者。藩校・弘道館から蘭学寮、医学寮(のちの好生館)で学ぶ。1861年(文久元年)、26歳で佐倉(現在の千葉県)の「順天堂塾」に入門し、蘭医学を学び、塾頭として頭角を現す。
その後、長崎で蘭医ボードインに師事。佐賀藩10代藩主鍋島直正の侍医となり、1869年(明治2年)、明治政府の「医学校取調御用掛」を命じられ、ドイツ医学の導入を主張。イギリス医学派の反対に遭いながらも信念強く主張を続け、最終的にドイツ医学の導入が採用される。
1872年(明治5年)、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)の初代校長となり、「医制略則」を起草。今日まで続く近代医学制度の礎を築いた。
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佐野常民 【1822(文政5)年~1902(明治35)年】
日本赤十字社の父
子どもの頃に、藩医・佐野常徴(つねみ)の養子となり、医者を志した。藩校・弘道館では学才を発揮し、その後、大坂や江戸で緒方洪庵、伊東玄朴らの門弟となり、蘭学、医学などの学識を広め、精煉方や三重津海軍所などでリーダーシップを発揮した。
1867年(慶応3年)にはパリ万博、1873年(明治6年)のウィーン万博に参加し、西欧の先進的な知識・技術等の習得に努め、同時に各国に赤十字社が組織されていることを知る。
1877年(明治10年)の西南戦争の惨状に心を痛めた佐野は、博愛社(のちの日本赤十字社)を創設し、敵味方の区別なく負傷者を救護した。
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※以下の偉人たちの説明文は、平成30年度に卒業した佐賀大学教育学部附属小学校6年1組の児童の皆さんがグループ学習で調べ、まとめてくれたものです。
枝吉神陽
「義祭同盟」を結成、
佐賀藩内に尊王思想を説く
天皇中心の政治を目指そうとする組織をつくり、明治時代に活躍する佐賀の若者に影響を与えた。
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島 義勇
札幌の礎を作った
「北海道開拓の父」
北海道開拓の父である島義勇は世界一の都市を目指し、札幌の町の基礎を築いた。北海道の人達からも愛されている。
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副島種臣
参議、外務卿。
書家としても有名
日本の江戸時代末期から明治時代の佐賀藩の政治家、書家。明治天皇から贈られた大金を苦しんでいる人のために使用してほしいと受け取らなかった。
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大木喬任
初代文部卿として、教育制度の確立に貢献。
東京府知事、司法卿としても活躍。
1871年初代の今の文部科学大臣となり、教育制度の整備に力を尽くした。また、法務大臣にもなり民法の基礎を築いた。
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江藤新平
初代司法卿。
近代集権国家の基礎をつくる
日本で初めて今の法務大臣となり、平等にすごせるように法律をつくった。佐賀の七賢人の一人で、国で大活躍した。
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大隈重信
総理大臣に2度就任。
早稲田大学の創設者
大蔵卿、外務卿などの要職を歴任し、総理大臣も2度務めた。また、1882年に後の早稲田大学を創立した。
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第1回、第2回さが維新まつりに登場した偉人たち
藩祖・鍋島直茂と葉隠の作者たち
鍋島直茂
佐賀35万7000石の藩祖
鍋島直茂は龍造寺氏の有力な家来でした。豊臣秀吉から長崎代官を命じられ、朝鮮出兵にも参加した肥前佐賀藩の藩祖。
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山本常朝
鍋島武士としての心得
「葉隠」を口述
1659年に生まれ、子供の頃から藩主鍋島光茂に仕えた。後に佐賀藩の歴史や、武士の心得などを陣基に語った。
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田代陣基
山本常朝の語る
「葉隠」を書き記す
19歳で3代藩主綱茂に、さらに4代藩主吉茂にも仕え、文章を作成する役割を担っていた。葉隠を記録した。
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直正を支えた賢人たち
鍋島 茂義
武雄領主。
佐賀本藩に先駆けて蘭学を導入。
佐賀藩9代武雄領主。幕末期の佐賀藩の高度な軍事力・技術力開発のさきがけとなり、軍備の近代化につくした。
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盛姫
鍋島直正の正室
盛姫は11代将軍家斉の娘で15歳で直正に嫁いだ。若くして藩主となった直正を支え37歳の若さで亡くなりました。
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貢姫
鍋島直正の長女
鍋島直正の第一子として生まれ、17歳で嫁いだ。手細工が得意で80歳で亡くなるまで様々な遺品が残っている。
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鍋島茂真
佐賀藩執政。
鍋島直正の藩政改革を助ける
直正のお兄さん。佐賀藩の執政をやっていて佐賀の近代化に大いに貢献した中の一人。大砲をつくった。
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鍋島直彬
最後の鹿島藩主。
初代沖縄県令
鹿島藩13代藩主。維新後初の沖縄県令になった。学校もつくり育英事業につくした。
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古賀穀堂
鍋島直正を教育した儒学者
教育改革の基礎を整備した。弘道館教授で七つの自警や学政管見をきっかけに直正に信頼された人物。
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近代建築、工学・化学分野の先駆者たち
辰野金吾
東京駅、日本銀行本店などを設計
金吾は武雄温泉楼門や東京駅などを設計したすごい人。曾禰達蔵と友達だった。そしてイギリス人建築家コンドルの弟子。
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曾禰達蔵
東京・丸の内オフィス街の基礎をつくる
コンドルに学んだ日本人建築家の第1期生。後輩の中條精一郎とともに設計事務所を開設し、近代建築の基礎を築いた。
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志田林三郎
日本の電気工学の草分け。
電気学会を創設
電気工学者で、19世紀後半にあって、今日の電気通信システムのほとんどを予見した先学者でもあります。
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黒田チカ
科学分野で日本初の女性理学博士
1884年に生まれ、東北帝大に入学し、有機化学を研究した。紅花の色素構造を研究し、着色料を作った。
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大企業へと発展させた実業家たち
中冨三郎
久光製薬の前身、久光兄弟合名会社を設立
明治9年~昭和32年の実業家。明治36年に、後の久光製薬を設立し、サロンパスを開発しました。
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市村 清
リコー三愛グループの創業者。
市村記念体育館を佐賀県に寄贈
人を愛し、国を愛し、勤めを愛す精神でサガテレビの創立にも力を入れたアイデア経営者で経営の神様と呼ばれた。
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江崎利一
江崎グリコの創業者
栄養素を活かした、日本を代表するお菓子メーカー江崎グリコの創業者。たくさんの工夫がつまったお菓子がある。
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森永太一郎
森永製菓の創業者
「お菓子の王様」と呼ばれ、お菓子作りの最先端を走った。日本に西洋菓子を取り入れた森永製菓の創業者。
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教育・文化に尽力した先駆者たち
田澤義鋪
青年団運動に生涯をささげた「青年団の父」
社会教育や公明運動、労使協定運動などたくさんの活動をした。日本青年館理事など大切な役割もになった。
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下村湖人
小説「次郎物語」の著者
佐賀生まれの小説家。教育家でもある。次郎物語を書き、さらに大日本連合青年講習所の所長にもなった。
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石井亮一
日本の知的障害者福祉・教育の創始者
日本で初めて知的障害者のために福祉・教育施設を作った人でヘレン・ケラーと会見したこともある偉大な人物。
石井筆子
夫・亮一とともに知的障害者福祉・教育に尽力
近代女子教育者の一人であり、知的障害福祉では、施設を創立した石井亮一を、妻として支えた。人につくす人生だった。
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中林梧竹
明治時代を代表する書家。「明治三筆」の一人
佐賀藩の支藩、小城藩生まれで書家。梧竹は連綿草書などの作品を作っていた。山内香雪に師事。87歳で死去。
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志を継いだ鍋島直大・栄子夫妻
鍋島直大
最後の佐賀藩主(11代)
駐イタリア特命全権公使・侯爵
佐賀藩11代藩主であり、最後の藩主。父直正が進めた科学技術の研究を引き継ぎ、佐賀の人材育成に貢献した。
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鍋島栄子
鍋島直大夫人
篤志看護婦人会長
鍋島直大の妻で直映の母です。京都で生まれ明治20年から日本赤十字社篤志看護婦人会長として活躍しました。
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